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​元町屋の話

2022年2月22日

  1. 横浜元町の木工房

昔から日本人は、海外の進んだ技術を真似して上手に取り入れ、そして、更により優れた技術を確立し独自の文化へと変化させてゆくことがうまかったように思います。自動車産業がその代表的な存在ではないでしょうか。横浜の元町では、開港以来イギリスなど海外から輸入された西洋家具の修理、そしてそれを真似た新しい家具の作成、更に日本の伝統技術、道具である鉋などを使い進化した技術で西洋家具との融合が行われてきたと聞いています。かつて元町には、西洋家具の製作、補修に携わる木工房がたくさんあり横浜家具というブランドも確立しています。今でも、山手の西洋館には、当時を偲ぶ外交官などが使っていた家具が残っており、それらを伝統的な技術を引き継ぎ補修する作業が必要になります。横浜家具の伝統を継承して残っている「蓮華草元町工房」という工房があり、横浜のマイスターとして西洋館にある家具の補修、修繕だけでなく、新たな時代へ向けた新作品つくりにチャレンジされています。私が40歳後半、八ヶ岳に家族で作っていたログハウスが漸く形になってきたころ、次は、家の中の家具を自作したいと漠然と考えていました。ある週末、偶然横浜山手を散策中にカフェだと思って入ったところが蓮華草のショールームで、そこにあった一脚の椅子に魅了されました。今まで見たこともないような、薄い一枚ものの板でできたおしゃれな背もたれで、構造的にこのような椅子が成り立つのかという驚きもあり、とても興味を持ちました。その蓮華草のショールームで、工房主であり、後の私の師匠になる内田さんに出会い、木工について会話が弾み、その日の帰りには木工教室へ参加させていただくことが決まっていました。

それ以来、月金はサラリーマン、土日は木工修業を続けてきて、漸く最近元町屋の裏手に自前の工房を持つまでになりました。そこで、元町屋のテーブル、椅子、衝立などを作り開店にこぎつけることができました。

2.下北沢の一杯のコーヒーから

あるどんより曇った冬の日曜日、東京のミッドタウンで日本全国の匠の技を持つ方々が作った色々な工芸作品の展示会があり、ネットで知り合った木工作家のスツールの展示を見に寄った帰りに気分もよかったのでなんとなく歩き始めて下北沢まで行きつきました。流石にのどが渇き、足も棒のようになったので休憩しようと思い喫茶店を探しました。よくあるチェーン展開の店ではなく、昔ながらの個人経営の喫茶店を見つけて入ったお店は「オールド」というところでした。間口は狭く一軒ほどに木の扉と腰高の窓がありました。中に入ると一軒の幅で細長く奥まで続いています。二人掛けで古めかしい布の傘を被ったランプが乗ったテーブルが壁際にいくつかあり通路を挟んでカウンタがあります。懐かしい昭和を思わせる喫茶店です。私以外に客はなく店内はゼンマイ仕掛けの柱時計の音がカチカチと静かに過ぎる時を刻んでいます。70前後で鼻ひげがありひょろっとやせて背が高いマスターが広口瓶に詰めたコーヒー豆をシャカ、(無音)、シャカとゆっくり振る音がなんとも心地よく響きます。BGMはその静けさを邪魔しないほどの音量でジャズがかかっています。マスターは無口でいかにも頑固そうな顔つきで、テーブルには、PC使用禁止の文字があります。メニューには、おいしそうな手作りケーキや、ホットサンドなどもありますが、深入りのブラックコーヒーを注文しなさいと促されているような気がしました。注文した深入りブラックコーヒーのためにマスターは、先ほどの広口瓶の蓋を開け中から匙山盛り一杯分の豆をグラインダーへ投入します。モーターが豆を砕き、続いて香ばしい香りがカウンタ越しに通路をまたいで私のところまで漂ってきました。ステンレスポットを傾けて、ネルドリップに満たしたコーヒーの粉に丁寧に少しずつ時間をかけて円を描くようにお湯を注いでゆきます。この一連の動作は、優に5分をかけてゆっくりと進んでゆきます。私は、じっとマスターの仕草に見とれていました。そしてこの落ち着いた気持ちの良い時間は、全て客である私のためにあるのだということに気が付きました。コーヒー一杯の費用は、そのお店にいる間の時の流れに対する対価なのだということに気が付きました。なんと優雅で心地よいひと時なのだろうと思いました。喫茶店でコーヒーを飲むということはそうゆうことなのだと理解しました。正に憩いのひと時であり、全てを忘れて心を休めるひと時であるということなのでしょう。

その後幾度か通ううちにマスターと会話することができるようになり、この深入りのコーヒー豆は、コクテール堂という老舗の豆で、オールドビーンズという2年ほど熟成したものであることを教えてもらいました。そして、偶然にもそのコクテール堂の豆を熟成させている工場が、湿気が少なく冬は寒く風通しの良い韮崎にあるということを知りました。

幸いなことに引退間近の韮崎の工場長の手ほどきで、ネルドリップで丁寧に時間をかけて入れる珈琲の入れ方を教わることができました。

残念ながら、オールドのマスターは、元町屋にご招待する機会もなく2020年に他界されてしまいました。オールドのマスターに教わった憩いの原点を僭越ながら元町屋で少しでもお客様にお届けできれば幸いです。

3.玉ねぎはじっくりとあめ色になるまで

元町屋のシェフは私の家内になります。出会う前は、元々両親が経営していた、うなぎ屋、ラーメン屋で働いていました。とはいうものの元町屋で洋食店を標榜するにあたり一からやり直す必要がありました。一緒になってからは、家内も東京でサラリーマンをしておりましたが、幸いに由緒ある東京會舘のクッキングスクールへ参加することができる機会があり、そこで、7,8年学ぶうちに、東京會舘クッキングスクールの梅崎先生と懇意にさせていただくようになりました。お陰様で、日本独自の文化である洋食屋のカレーの味を追求することができる機会をいただきました。梅崎先生には、元町屋開店時にはわざわざ山梨までお越しいただき、自らコックコートを着て未熟な私たちに直接指導をしていただき、本当に信じられない、ありがたい経験をさせていただきました。

先生いわく、玉ねぎをあめ色になるまで炒めるのは色付け目的ではなく、甘みを最大限に引き出すためとのことです。その教えを忠実に守って2日間かけてじっくり炒めた玉ねぎの味を、元町屋のカレーで味わってください。

4.ゼンマイ式柱時計の音

前述のように喫茶店「オールド」では、柱時計のカチカチと柔らかに時を刻む音になぜか心を癒されました。元町屋を開店する際には是非ともゼンマイ式の柱時計を設置したいと考えていました。ゼンマイ式ですから、毎日定期的にゼンマイをまく必要が出てきます。現代では、面倒くさいこと、手間がかかり、効率が悪いこと、正確ではないことは悪のように扱われがちです。見方を少し変えて、面倒くさいことを楽しむことができれば、手間をかけて愛情がわけば、非効率で不正確である点も心に余裕をもって許容することができるようになれば、性急に物事が進む現代の価値観とは全く違う幸せ感を感じることができるように思いました。

ところで、元町屋の柱時計は、私の学生時代からのクラブの大先輩で、リサイクル、骨とう品業を営んでいる藤城先輩からいただいたものです。かつて代々木にリサイクルショップを持っておられ、私が学生時代にはそこでアルバイトをさせてもらい、大切な社会人勉強をさせてもらいました。30年以上たった今も、この八ヶ岳でお付き合いをさせていただき、開店に際して私の我儘を聞いて、ドイツ製の素晴らしい柱時計をご用意いただいたという次第です。

先輩は、今では、埼玉にある骨とう品市場の経営者として現役で活躍されています。いつお会いしてもその生業を楽しまれており、益々日々発展されています。そのような先輩から学んだ人生教訓はたくさんあり、本当にありがたいといつも感謝しております。

また、元町屋のピアノの上に置いてあるSMITHというイギリス製のゼンマイ時計は、藤城さんの息子さんのお店で購入しました。このような小さな置時計でも時報ではボーンボーンと鐘を鳴らします。海外の時計といえばスイス製、ドイツ製がすぐに思いつきイギリス製というのは珍しいようですが、実は、SMITHは、MINIのスピードメーターを作っていたメーカーでもあったそうです。

その関係で、MINIを絵画として描く大熊さん(7.に記載)は、SMITHの腕時計の販売修理も扱っています。

5.教会のステンドグラスからの柔らかい光り

ヨーロッパに旅行へ行くと必ずと言っていいほどキリスト教会を訪問します。私はキリスト教を崇拝しているものではありませんが、日本へ海外から来た方々が寺院や神社に訪れるのと同じように、行った先の文化遺産がそこにあり、その一端を垣間見たいと思うから訪問します。私が特に好きなのは、パイプオルガンが地を這って全身を震わせるような低音を奏でる時と、七色のステンドグラスを通して暗く静まり返った教会内を照らす太陽の自然光です。そのような中にいるととても素直な気持ちになり、その場に居られることの幸せを感じます。

学生時代に長崎の大浦天主堂へ行き、ステンドグラスを見て西洋への憧れを抱いたのを覚えています。昭和の時代では、教会だけでなく、ステンドグラスを取り入れたおしゃれな喫茶店やカフェもたくさんあったようです。広葉樹をふんだんに使った西洋家具や挽物細工の手摺などと一緒に落ち着いた贅沢な空間を演出した場所が数多くあったと思います。今の時代は、目まぐるしく流行が変わってゆくので、そのような手間をかけた作りを維持ししてゆくことが難しくなったのでしょう。

東京の江東区にステンドグラス製作の草分けともいえる松本ステンドグラスという工房があります。日本では、地震が多いので海外のものをそのまま持ってきただけではダメなようで、耐震構造を考えて作成しています。国会議事堂をはじめ国内の美術館、ホテルなど大きく、立派なステンドグラスを手掛けていると聞きました。元町屋では、家内が、フクロウとお花が好きなのでそれをモチーフにデザインをお願いして作成していただきました。


6.イギリスの家、日本の家、フィンランドの家、ドイツの家

昭和のころ、世界の経済大国と自負をしていた日本人はウサギ小屋に住んでいるという自虐的な冗談がはやったことを覚えています。事実私自身もサラリーマン独身時代には、家賃月額4万円を目安に4畳半一間で天井が低く四方白い壁紙で覆われた殺風景なアパートを転々とした経験があります。残業が月に200時間を超え自宅にはただ寝に帰るだけなので何の不自由も感じていませんでした。しかし、海外へ行くようになり、現地でのライフスタイルを垣間見ると、自分の日本でのそのような生活があまりにも貧弱に思えてきました。イギリスでは、古い家、家具、調度品などを代々引き継ぎ大事に長く使うという風習があります。家を借りる、または、購入する際もFurnishedといって、昔の家具が備わったまま引き渡すということが行われます。家自体は、100年物はざらで、古いほうがそこに以前住んでいた人たちのキャラクターが宿っているのでより価値があり好まれるそうです。そのような古いけれど丈夫で価値のあるものの中での生活は、とても心豊かな生活を送れるように思い憧れました。

日本では、石造りというよりも、木をふんだんに取り入れた家が風土的に似合っているようです。伝統的な柱組、ほぞ組、漆喰で作る日本建築は、高級になり、また、作れる大工さんも限られて継承が難しいようです。自宅は、木をふんだんに取り入れて、地震にも強く、この八ヶ岳の気候に合っているフィンランドのログハウスを選び、できるだけ自分たち家族で作りました。湿気調節、蓄熱、断熱等この八ヶ岳の気候には合っているようです。

元町屋は、できれば昭和の西洋への憧れを具現化した落ち着いたカフェにしたかったので、それに合うデザインを探しました。元々、この八ヶ岳でドイツハウスとして定評がある堀内組にお願いすることにしました。基本構造は、軸組の日本的な構造ですが、外断熱を採用しておりこの八ヶ岳では、寒さを凌ぐのに最適です。また、夏も十分な断熱効果で涼しく過ごすことができます。なんといっても、ドイツハウスということで、デザインがシンプルで、堅牢、大きな屋根、白壁と高い天井が私たちのイメージに合いました。


7.MINIはイギリス製

往年の車好きであれば、若いころ一生に一度は国産ではなく外国の車、それもドイツの車に乗ってみたいと憧れたことがあるのではないでしょうか。外国の車の中でもMINIという存在は、高級車への憧れとは違った一種独特の趣を感じさせる車でしょう。イギリスの一般大衆車でそのフォルムは永年変わることもなく、車好きでなくても、MINIであることをある種の愛情の念を抱いて認識する車の代表格ではないでしょうか?そのMINIをモチーフに絵を何十年も描き続けている日本人画家が千葉にいらっしゃいます。大熊さんという方です。大熊さんは、単に車のマニアとしてMINIを描くだけでなく、若いころからイギリスを巡りながら途中立ち寄ったパブハウスやそこで出会った人との交流の風景をバックにミニの絵を描いています。特徴のある画法で、どの絵をとってもイギリス文化とイギリス人気質をうまく表現し、そこにかわいいミニが必ず登場するので、その絵を見ていると不思議な懐かしさと、ユーモアを感じて微笑んでしまう自分がいることに気が付きます。

大熊さんは、それらの原画をカレンダーにして毎年発行されています。また、本場英国でミニの50周年、60周年を記念するイベントに使われた公式ポスターも描いています。

ところで、私が20代後半にイギリス、ロンドンに駐在していたころ、週末ドライブでたまたま泊まった、ロンドン郊外のシップストンという町のパブ「Red Lion」で、その夜ご主人と話が弾んで、その時にRed Lionを描いた一枚のシルクスクリーン画と、その年のカレンダーをいただいたことがありました。その原画とカレンダーが、後々30年以上たってある出来事で出会った大熊さんが書いたものであるということがわかったのでした。

その後、大熊さんと交流させていただき、元町屋を開店するにあたり、お願いをして描いていただいた絵を飾っております。やはりそこには、元町屋をバックに私どもの家族とMINIを描いていただきました。


8.桜畑という地名なので桜をシンボルツリーとして

サラリーマン時代から八ヶ岳に毎週末通い始めて早20年が過ぎようとしています。その間、この地でいろいろな人に出会いましたが、近所付き合いを含めて都会では忘れかけていたような楽しい人間関係を持つことができて本当にこの地に住むことができてありがたいと感じております。山さんと恵子さんと出会ったのは、10年ほど前になるかと思います。とにかく交友関係が広く、また、地域のこともよく知っていて、遊びに誘ってもらうといつも楽しくて大笑いしながらあっという間に時間が過ぎてしまいます。いつも会うたびに、都会でのサラリーマンを早く切り上げて八ヶ岳に根を張るようにすすめられました。山さんと恵子さんはガーデニングを生業とされていますので、今年、元町屋の前にシンボルツリーの桜の木を植えていただきました。この桜の木がこの桜畑に根を張り、毎年4月に花を咲かせるのを楽しみにしております。


9.レコードは今日も回っている

長い間サラリーマン生活を漫然と続けていると、かつて若いころに熱を入れた音楽鑑賞のことなど全く忘れていました。ある日、平日の昼食後、丸の内の新東京ビル1階のフロアを歩いていたところ、閉店セールの文字が目に飛び込んできました。何屋の閉店かと覗き込んでみると、中古レコード屋でした。丸の内のこんなところにレコード屋があったなどということ自体が驚きでしたが、中を覗いてみると目に入ってきたのが、ビートルズの青版、赤版に貼られた半額で一枚数百円というタグでした。特にビートルズファンではない私も久しぶりのレコードの存在が気になり、それも半額ということで、一旦オフィスに引き上げたもののその日の午後は頭の中がレコードのことが気になって仕方がなく、結局6時の終業後、かみさんを誘ってその中古レコードショップへ舞い戻りました。

ビートルズもいいけれど、懐かしいポップスや、聞いたことはないけど有名そうなクラシックのレコードを漁っていました。もう何十年もレコードを聴くことから遠ざかっていたのに、その日は、懐かしさのあまりレコードを10枚ほど買って帰ってきたことを覚えています。もちろん、その時点では、自宅にレコードプレーヤなどありませんでした。

早くレコードの音を聞きたいという逸る心を抑えきれず、次の日には、昼休みに昼食をとるのも忘れて有楽町のビックカメラでレコードプレーヤ、アンプ、スピーカーの物色を始めていました。今はよい意味でネット社会なので、そのようなアナロググッズがどこに売っているのかも直ぐに調べられます。幸いなことにオフィスから近いこともあり、その日以降、終業後はレコード探しでお茶の水のディスクユニオンなどに入り浸っていました。それ以来、若き日の音楽への情熱のようなものを取り戻し、片面30分足らずの黒い円盤を丁寧にジャケットから取り出しナガオカのビロードのクリーナーで埃をふき取り、ターンテーブルの上にのせて針を落とすことを一切厭わず、むしろ、心躍らせながら回す日々が続いています。今日も、クラシック、ジャズ、シャンソン、フレンチポップス、カンツォーネ、ポップス、J-ポップ問わず私の目の前でプチプチ言いながらターンテーブルが回っています。


10.このような時代だからこそ真空管アンプ

ターンテーブルを回すとなると、次に来るのは真空管アンプというのが定番でしょうか?しかしながら、私の若いころは真空管アンプの流行には縁はなく、音楽鑑賞は既に半導体を使ったオーディオの時代でした。また、遊び呆けた文系卒の学生でしたので、電気のことは全く分かりませんでした。しかし、たまたま最近ネットで目にした、真空管アンプという存在が、クールでデジタルな時代だからこそ、その正反対にある存在、オレンジ色にともった光と一緒に熱を発し、電気は食う割に増幅率は半導体の数十分の一しか出せないというアナログな存在に心を奪われてしまったのです。何MHzまで聞こえるとか、何W のパワーがあるとかそういうことではなくて、なんとなく気持ちいい音に包まれているという感覚と、その存在感に魅了されました。そうなると、たとえ電気のことがわからなくても自分で作ってみたくなるのが私の性分のようです。自分で家を作る、家具を作る、そしてとうとう真空管アンプも自作するという領域に入ってきたのです。幸いなことに、昨今では、電気のことがわからなくても丁寧で分かりやすい説明と組み立て実態図付きの本や、キットが出ているのでそれに従えば自作することができます。はじめは、6L6GC、300Bなどのキットを、そして、それに飽き足らず、本やネットの情報をもとに2A3、6BM8、6BQ5、6V6などのシングル、6N6P、EL34のプッシュプル等いろいろな種類の真空管アンプを次々と作ってゆきました。 抵抗、コンデンサーに始まり、電源トランス、諸々の部品をネットや、秋葉原で購入することになります。正に、オタクの世界に足を踏み入れました。

オタクついでの話になりますが、真空管アンプという古い技術で効率よく音を鳴らすには、スピーカーにも一工夫したほうが良いということがわかってきました。真空管アンプは、現代の半導体アンプに比べてパワーが非常に低いので、能率の高いスピーカーで補うべきで、そのような能率の高いスピーカーというのは、昨今市販のものはあまりなく、能率の高いユニットを購入して箱(エンクロージャー)を自作する必要があるということです。また、箱の作り方もバックロードホーンという特殊な構造を設計し、できるだけ低い周波数の低音を出しバランスの良い音を出す必要があります。ということで、このスピーカーの箱作りも木工に結び付くことになるのです。更に掘り下げると、音を鳴らす木の箱への塗装にもうんちくがあります。普通の塗料では波長の伝達を邪魔するようで、それには、シェラックというバイオリンなどの楽器に塗装する塗料が好まれます。このシェラックは自然塗料で家具の幾重にも塗る塗装過程の途中でも使われます。


11.シャンソン、カンツォーネ、昭和歌謡

シャンソン、フレンチポップス、カンツォーネを聞いていると、何か昭和のころ流行った歌謡曲や、フォークソング、演歌の曲調と近いものがたくさんあります。当時、ヨーロッパではやっている音楽を日本語でカバーしたり、それとなく、ヨーロッパの音楽を意識して作った曲が流行った時代だったのでしょう。ユーミンの曲の中に、「私のフランソワーズ」というのがありますが、そのフランソワーズとは、フランソワーズ・アルディのことで、あのユーミンも憧れていたのですね。私が学生の頃は、レコードが一枚2,500円もしたので、なかなか思うように買いあさることはできませんでした。週刊FMという雑誌を購入し番組表から海外のアーティストのアルバムをエアーチェックしカセットテープに録音したものです。そのころ憧れて聞いた音楽は、おぼろげにでも覚えていて、改めて昔のレコードを聴くと、とても懐かしく気持ちがそのころにタイムスリップします。当たり前なのに不思議なことは、レコードから流れてくる音楽は、今でも当時の若々しい歌声や演奏であり、その当時の情景のままの記録であるということです。もうその当時の歌手や演奏家は歳を取ったり、他界しているのに、レコードをかければ、そう当時の真実がよみがえってくるのです。今はもういないカラヤンの指揮する演奏が、レコードでは、生々しく再現されその当時聞いていた音と全く変わりなく聞くことができるのです。当時のレコードという黒い円盤へ刻んだ溝をダイヤモンド針がなぞることによって、完全にその当時と同じ演奏を再現することができるという技術、それが、30,40、50年と経っても変わらないという技術に感謝しながら、この今を楽しんでいます。


小生まだ人生60年ほどの若輩者ではありますが、今までの人との出会いや、出来事が自分の進んできた道に大きな影響を与えてくれたと感じております。そして、それらの集大成がこの元町屋を作る原点になっているということに気が付きました。影響を与えてくれた方々、出来事に大変感謝しております。60歳にしていまさらながら気づいたというか、今だから漸く言えることというか、自分が思い描いた理想の姿を諦めずに追い求めていると、必ず、その夢をかなえるために必要な出会いや出来事が目前に現れます。無理やりではなく、自然体で自分の心地よいイメージを描きながら、焦らず少しずつ時を過ごしてゆくと必ず良いほうに物事が進んでゆきます。そして、そのような事が自由にできる時代に生かせてもらえたことに大変感謝します。


元町屋店主

元町屋の話: テキスト
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